その番号は、数学の公式よりもはっきり頭に入っていた。 何度も紙に書き、何度も消し、最後には書かなくても思い出せるようになった。 市外局番、局番、最後の四桁。 たった十桁ほどの数字なのに、そこには駅二つ分の距離よりも長い沈黙があった。

机の上には、黒い電話が置かれていた。 家族の誰もいない居間。テレビは消えている。 台所の冷蔵庫だけが、小さく唸っている。 時計の針は九時を少し過ぎていた。 早すぎるだろうか。遅すぎるだろうか。 夕食はもう終わっているはずだ。でも、家族がいるかもしれない。

もちろん、いるに決まっている。 彼女の家なのだから。

はじめての電話で一番怖いのは、本人ではなく、本人以外が出ることである。

番号を書く

番号を教えてもらったのは、金曜日の放課後だった。 雨が降りそうで降らない、薄い灰色の空の日だった。 彼女は、ノートの端を小さく破って、そこに数字を書いた。 「急ぎのときだけね」と言った。 その「急ぎのときだけね」は、たぶん「いつでもいいよ」ではなかった。 でも、完全に「かけないで」でもなかった。

だから彼は、三日待った。 土曜日は早すぎる気がした。 日曜日は家族で出かけているかもしれない。 月曜日は学校で会えるから、かける理由がない。 そして月曜日の夜、学校で会ったあとに、かける理由を失ったはずなのに、 逆に電話したい気持ちだけが残った。

用件はあった。 英語の宿題について聞きたいことがある。 そう自分に言い聞かせた。 でも本当は、宿題などどうでもよかった。 彼が知りたかったのは、電話の向こうの彼女の声が、 教室で聞く声と同じなのか、それとも少し違うのかということだった。

受話器を持つ

受話器は、思ったより重かった。 いつも家族が使っている同じ電話なのに、 その夜だけ、受話器は別の道具のように感じられた。 耳に当てると、まだ番号を押していないのに、心臓の音が聞こえる気がした。

一桁目。 二桁目。 三桁目。

指は慎重に動いた。 間違えれば最初からやり直しだ。 いや、やり直しより怖いのは、間違い電話になってしまうことだった。 知らない家にかかり、知らない大人が出て、 「どちらへおかけですか」と聞かれる。 その想像だけで、彼は一度受話器を置きそうになった。

でも、置かなかった。

はじめての電話が怖い理由

  • 本人が出るとは限らない。 家族が出るかもしれない。
  • 用件が弱い。 本当の理由を隠すために、どうでもよい用件を作ってしまう。
  • 声が震える。 文字では隠せる感情が、電話では出てしまう。
  • 切り方がわからない。 いつ終わればよいのか、誰が先に切るのか迷う。
  • かけた事実が残る。 もう「偶然」ではない。自分から声を届けに行ったことになる。

最後の一桁

最後の一桁を押す前に、彼は一度だけ天井を見た。 天井には、蛍光灯の白い輪が映っていた。 こんなに明るい部屋で、こんなに暗い気持ちになるのは不思議だった。 電話とは、部屋にいながら別の家の玄関を叩くようなものなのだと、 彼はその夜初めて知った。

最後の数字を押した。

呼び出し音が鳴った。

一回目。 まだ誰も出ない。

二回目。 出ないでほしい気もした。 出てほしい気もした。

三回目。 受話器を持つ手に汗が出てきた。

四回目。 もう切ろうかと思った瞬間、向こう側で何かが動いた。

呼び出し音は、相手の生活に近づいていく足音である。

知らない声

「はい、佐伯です」

男の人の声だった。 彼女の父親だろうか。 彼は背筋を伸ばした。 誰も見ていないのに、立ってしまった。

「あ、あの、夜分にすみません。佐伯さん、いらっしゃいますか」

しまった、と思った。 佐伯さんは家族全員が佐伯さんだ。 名前を言わなければいけなかった。

「どの佐伯でしょうか」

声は怒っていなかった。 けれど、彼には厳しい試験官のように聞こえた。

「あ、えっと、佐伯、真理さんです」

ほんの少しの沈黙があった。 その沈黙の中で、彼は自分の名前をまだ言っていないことに気づいた。

「同じクラスの、田中です」

「少々お待ちください」

受話器の向こうで、遠くの声がした。 「真理、電話」

その声が家の奥へ運ばれていくのを、彼は耳で追った。 彼の名前も一緒に運ばれていく気がした。 家の廊下、階段、部屋の扉、そのすべてを想像してしまった。

家の廊下で家族が電話を取り次ぐ夜の風景

彼女が出るまで

待っている時間は、長かった。 実際には二十秒ほどだったかもしれない。 でもその二十秒の中で、彼は電話を切る理由を十個考えた。 やっぱり宿題は解決したと言えばいい。 間違えましたと言えばいい。 急用ではありませんでしたと言えばいい。 いや、そんなことを言えば余計に変だ。

受話器の向こうで、足音のようなものがした。 少し乱れた呼吸。 そして、声。

「もしもし」

彼は、その一言だけで電話してよかったと思った。

教室で聞く声より少し低く、少し近く、少し眠そうだった。 そこに家の空気が混ざっていた。 彼女は学校の彼女ではなく、家にいる彼女だった。 それが、彼にはとても特別に思えた。

用件

「あ、田中です」

「うん。聞いた」

「あの、英語の宿題なんだけど」

「やっぱり」

彼女は少し笑った。 その笑い声が、電話線を通ってこちらへ来た。 教室なら周りの音に混ざって消えるような小さな笑いだった。 電話では、それが真っ直ぐ耳に入った。

「どこ?」

「教科書の、三十二ページ」

「そこ、明日までじゃないよ」

「え」

「明後日」

彼は、用件を失った。

受話器を握り直した。 ここで切るべきだろうか。 「ありがとう」と言って終わるのが自然だ。 でも、自然に終わるには早すぎた。 彼はまだ、彼女の声を一分も聞いていない。

作った用件が消えたあと、本当の電話が始まることがある。

沈黙

二人とも黙った。

沈黙の中で、彼は彼女の家の音を聞いた。 遠くでテレビの音がした。 食器を置く音がした。 誰かが笑う声もした。 彼女はその家の中にいて、自分は自分の家にいる。 それなのに、受話器の中だけは二人の小さな場所だった。

「田中くん」

「はい」

「電話、初めて?」

「え」

「私の家に」

「うん」

「緊張してる?」

「してない」

彼女はまた笑った。 今度は少し長く笑った。

「してる声だよ」

彼は何も言えなかった。 電話は怖い。 声が、隠したいものを勝手に届けてしまう。

本当の用件

「あの」

「うん」

「宿題だけじゃなくて」

そこで彼は止まった。 電話の向こうは静かだった。 彼女は急かさなかった。

「声、聞きたかっただけ」

言ってしまった。

言葉は、受話器から出た瞬間、もう戻らなかった。 彼は目を閉じた。 こんなことを言うつもりではなかった。 もっと軽く、もっと冗談のように、もっと逃げ道のある言い方をするはずだった。 でも電話は、準備した言葉ではなく、本当の言葉を選んでしまうことがある。

彼女は何も言わなかった。

その沈黙は、先ほどの沈黙とは違った。 空っぽではなかった。 何かが置かれていた。

そして、彼女が言った。

「じゃあ、もう少し話す?」

彼の手から、力が抜けた。

この物語の電話の作法

  • 名乗る。 家の電話では、本人以外が出ることを想像して、まず丁寧に名乗る。
  • 時間を考える。 夜の電話は、相手の家族の時間にも入っていく。
  • 用件を用意する。 ただし、本当の気持ちは用件のあとに出てくることがある。
  • 沈黙を待つ。 恋の電話では、急がない沈黙が会話を深くする。
  • 切り方を大切にする。 最後の一言が、次の電話につながる。

もう少し

それから二人は、何を話したのかよく覚えていない。 宿題のこと。 明日の天気。 先生の口癖。 駅前のパン屋。 好きな音楽。 文化祭の準備。 どれも小さな話だった。

でも、小さな話が続くことが嬉しかった。 大きな告白ではなく、何でもない会話がつながっていく。 電話の向こうで、彼女が笑う。 彼も笑う。 同じ部屋にいるわけではないのに、同じ夜の中にいる気がした。

十分ほどたったころ、彼女の家の向こう側で声がした。 「真理、お風呂」

「行かなきゃ」

「うん」

「電話、してくれてありがとう」

「こちらこそ」

こちらこそ、という返事は変だったかもしれない。 でも、ほかに言葉が見つからなかった。

切る前

電話を切る前の数秒は、会話全体よりも長く感じられることがある。 どちらが先に切るのか。 もう一言言うのか。 「じゃあ」と言ったあとに、まだ何か言えるのか。

彼女が言った。

「また、宿題わからなかったら電話していいよ」

「うん」

「宿題じゃなくても」

彼は、受話器を落としそうになった。

「うん」

彼女は小さく笑って、

「じゃあ、おやすみ」

と言った。

「おやすみ」

彼は、相手が切るまで受話器を耳に当てていた。 向こう側で小さく音がして、回線が静かになった。 そのあともしばらく、彼は受話器を置けなかった。

はじめての電話は、切れたあとに本当に始まる。
電話を切ったあと静かな部屋で微笑む少年

翌日

翌日、教室で彼女に会った。 いつもと同じ制服で、いつもと同じ席に座っていた。 でも、彼には少し違って見えた。 電話の声を知ってしまったからだ。 教室の彼女だけではなく、家で「もしもし」と言う彼女を知ってしまった。

彼女は振り向いて、何もなかったように言った。

「宿題、明日だからね」

「知ってる」

「昨日は知らなかったでしょ」

彼は笑った。 彼女も笑った。

その笑いは、電話の向こうで聞いたものと同じだった。 でも、少しだけ違った。 目の前にいると、声には顔がつく。 電話では、声だけが先に心へ届く。

何年もあとで

何年もあとで、彼はその電話のことを思い出すことになる。 どんな用件だったかは忘れている。 英語の宿題のページも、彼女の父親の声も、正確には思い出せない。 けれど、最後の一桁を押す前の怖さだけは覚えている。 呼び出し音の数も、彼女の「もしもし」も、切る前の「宿題じゃなくても」も覚えている。

人生には、あとから見れば小さなことがある。 でも、その小さなことの前後で、世界の見え方が少し変わることがある。 はじめての電話は、そういう出来事だった。 彼女と何かが始まったのかどうかは、ここでは書かない。 ただ、彼はその夜から、電話というものを少し信じるようになった。

電話は、勇気を少しだけ貸してくれる。 会いに行けない場所へ、声だけを先に行かせてくれる。 そして、向こう側から「もしもし」と返ってきた瞬間、 人は一人ではなくなる。

電話の向こうに、人がいる。はじめての電話は、そのことを人生で初めて本当に知る夜である。
Denwa.co.jp Note

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