電話が鳴ったのは、午前零時三分だった。 日付が変わってから三分しか経っていないのに、 その音は昨日の続きではなく、まったく別の夜から来たように聞こえた。
部屋は暗かった。 エアコンの小さな音だけがしていた。 カーテンの隙間から、隣のマンションの非常灯が細く入っていた。 机の上のスマートフォンが震え、画面が青白く光った。 その光だけで、部屋の空気が変わった。
画面には、名前が出ていなかった。 番号だけだった。 しかも、見覚えのない番号。
真夜中の電話は、鳴った瞬間から用件を言っている。普通の用ではない、と。
出るべきか
彼は電話を見つめた。 出るべきか。出ないべきか。 昼間なら出なかったかもしれない。 知らない番号なら、そのまま切れるのを待てばいい。 用があれば、留守番電話かメッセージが残る。
しかし、真夜中の電話は違う。 夜中に知らない番号からかかってくるというだけで、 そこには何かが起きているように思えてしまう。 間違い電話かもしれない。 詐欺かもしれない。 でも、病院かもしれない。 警察かもしれない。 遠くの家族かもしれない。
呼び出しは止まらなかった。 彼は、五回目の振動で通話ボタンを押した。
「もしもし」
しばらく、何も聞こえなかった。 ただ、遠くで車が通るような音がした。 それから、若い女の声が言った。
「すみません。お父さんですか」
真夜中の電話が怖い理由
- 時間が異常を示す。 夜中に鳴るだけで、普通の用件ではないと感じる。
- 名前がない。 知らない番号は、相手の顔を想像できない。
- 悪い知らせを想像する。 病院、事故、家族、緊急連絡が頭をよぎる。
- 出ない後悔が怖い。 もし大切な電話だったら、という不安が残る。
- 沈黙が深い。 夜の沈黙は、昼の沈黙より意味を持ってしまう。
お父さんですか
彼はすぐに答えられなかった。 お父さんですか。 その言葉は、彼の人生のどこにも正しく当てはまらなかった。 彼には子どもがいない。 結婚もしていない。 誰かから父と呼ばれるような年齢ではあるが、 実際にそう呼ばれたことはない。
「違います」
彼は言った。
「番号をお間違えだと思います」
女は黙った。 その沈黙が、ひどく若く聞こえた。 若い沈黙というものがあるのかどうかはわからない。 けれど、彼にはそう聞こえた。 泣き出す直前の、でもまだ泣いていない沈黙だった。
「すみません」
彼女は言った。
「もう一度、番号を確かめます」
そこで切れると思った。 しかし電話は切れなかった。
「あの」
女が言った。
「少しだけ、切らないでいてもらえますか」
間違い電話の中には、間違いでは終われない夜がある。
夜の外
彼は起き上がり、ベッドの端に座った。 電話の向こうからは、風の音が聞こえた。 屋外にいるのだろう。 ときどき、遠くで信号機の音のようなものがした。 彼女はどこかの道にいる。 そう思った。
「どこにいるんですか」
「駅の近くです」
「家には帰れますか」
「帰れます」
「誰かに連絡したほうがいいですか」
「お父さんに」
彼女はまた黙った。
「でも、番号が違ったみたいです」
彼は、電話を切る理由を探した。 見知らぬ相手だ。 夜中だ。 何かあれば警察か駅員に相談するよう言えばいい。 自分が関わるべきではない。
それでも、切れなかった。 「切らないでいてもらえますか」と言われたあとに電話を切ることは、 思ったより難しかった。
父の番号
「番号は、どこで見たんですか」
彼は聞いた。
「古い手帳です」
「お父さんの?」
「母のです」
その言い方で、彼は少し事情を察した。 母の古い手帳。 父の番号。 真夜中の駅前。 そこには、昼間なら話せない種類の何かがあった。
「お父さんとは、普段連絡を取っていないんですか」
「会ったことがありません」
その答えは、夜の空気をさらに深くした。
「母が、今日、亡くなりました」
女の声は、その一文だけ妙に平らだった。 感情がないのではなく、感情が大きすぎて声の中に入らないようだった。
「それで、手帳を見つけて」
「はい」
「そこに番号が」
「はい」
「それが、私の番号だった」
「はい」
彼は、しばらく何も言えなかった。
名前
「お名前を聞いてもいいですか」
彼は言った。
「千尋です」
「千尋さん」
名前を呼ぶと、彼女が少しだけ落ち着いた気がした。 電話では、名前を呼ぶことが相手を暗闇から少し引き上げることがある。
「私は佐野と言います」
「佐野さん」
彼女もまた、彼の名前を呼んだ。 それだけで、二人は知らない番号同士ではなくなった。
「千尋さん、お父さんの名前はわかりますか」
「亮介です」
彼は息を止めた。
亮介。
その名前を、彼は知っていた。
真夜中の電話で起きたこと
- 知らない番号。 出るか迷う夜中の着信。
- 間違い電話。 本来の相手ではない人につながってしまった。
- 古い手帳。 亡くなった母の手帳から見つかった番号。
- 父の名前。 会ったことのない父を探す娘。
- 知っている名前。 間違い電話の相手が、その名前を知っていた。
亮介
亮介は、彼の大学時代の友人だった。 いや、友人だったと言うには少し複雑だった。 同じ下宿に住み、同じ食堂で食べ、同じ映画を観た。 何度も夜通し話した。 しかし卒業後、連絡は少しずつ減り、 ある時期から完全に途絶えた。
彼は、千尋にそのことをすぐには言えなかった。 たまたま間違ってかかってきた電話の相手が、 探している父の古い知人だなど、都合がよすぎる。 まるで作り話だ。 しかし、真夜中の電話には、作り話のようなことが起きる。
「その人を、知っているかもしれません」
彼は言った。
電話の向こうで、千尋の呼吸が止まった。
「本当ですか」
「同じ人なら」
「どんな人でしたか」
彼は、亮介の顔を思い出そうとした。 けれど出てきたのは顔ではなく、声だった。 笑うと少し鼻にかかる声。 ふざけているのに、急に真面目になる声。 夜中の下宿の廊下で、「佐野、起きてるか」と呼ぶ声。
「よく笑う人でした」
彼は言った。
「それから、逃げるのがうまい人でした」
千尋は何も言わなかった。
人を思い出すとき、顔より先に声が戻ってくることがある。
古い下宿
彼は、亮介の話を少しだけした。 古い下宿。共同の台所。夏でも冷たい廊下。 いつも壊れかけていた洗濯機。 亮介が夜中にギターを弾き、隣の部屋の学生に怒鳴られたこと。 試験前なのに映画を観に行ったこと。 雨の日に傘を三本盗まれたと騒いでいたこと。
千尋は黙って聞いていた。 彼女が聞きたいのは、笑える思い出だけではないはずだった。 でも、彼女は遮らなかった。 父という人物の輪郭を、知らない人の記憶から拾っているようだった。
「母のことも、知っていますか」
千尋が聞いた。
彼は答える前に、窓の外を見た。 非常灯の赤い光が、カーテンの隙間から細く揺れていた。
「たぶん」
「たぶん?」
「名前を聞けば」
「美和です」
美和。
今度は、顔が先に戻った。 長い髪を後ろで結び、いつも大きな帆布のバッグを持っていた女性。 亮介の隣にいて、亮介より静かに笑う人。
「知っています」
彼は言った。
「お母さんも、知っています」
言わなかったこと
彼は、美和のことをどこまで話すべきか迷った。 亮介と美和が一緒にいたこと。 その後、何かが壊れたこと。 美和が下宿に来なくなったこと。 亮介が急に大学を休む日が増えたこと。 卒業前に、二人がもう一緒ではないと誰もが知っていたこと。
そして、亮介がある夜、彼の部屋に来て言ったこと。
「俺、父親になるかもしれない」
彼は当時、何を言ったのか覚えていない。 たぶん、驚いた。 たぶん、無責任な助言をした。 たぶん、真剣に聞いているふりをしながら、自分には関係のないことだと思った。
そのあと、亮介は遠くへ行った。 美和のそばにいたのか、離れたのか、彼は知らない。 ただ、連絡は途絶えた。
そして二十数年後の真夜中、 その「かもしれない」と言われた子どもが、彼の電話にかけてきた。
若い日に聞き流した言葉が、何十年もあとで電話になって戻ってくることがある。
探したいのか
「千尋さんは、お父さんを探したいんですか」
彼は聞いた。
「わかりません」
千尋はすぐに答えた。
「会いたいわけではないんです」
「はい」
「でも、母が最後まで名前を消さなかった理由を知りたい」
彼は、その言葉に胸を突かれた。 名前を消さない理由。 それは愛かもしれない。 恨みかもしれない。 未練かもしれない。 ただの記録かもしれない。 あるいは、そのすべてかもしれない。
「手帳には、番号だけでしたか」
「名前と番号と」
「はい」
「小さく、『夜はだめ』って書いてありました」
彼は、思わず時計を見た。 午前零時二十六分。
「夜はだめ、ですか」
「はい」
千尋は少し笑った。
「なのに、夜にかけました」
その笑い声は、母を亡くしたばかりの人の笑いとしては、あまりにも小さく、あまりにも正直だった。
古い住所
彼は、亮介の最後の住所を思い出そうとした。 卒業後に一度だけ届いた年賀状。 そこに書かれていた住所。 北のほうの町だった。 たしか、川の名前が入っていた。 しかし、はっきりしない。
「昔の手帳を探せば、何か出てくるかもしれません」
彼は言った。
「本当ですか」
「約束はできません。でも探します」
「ありがとうございます」
「いえ」
「佐野さん」
「はい」
「母は、どんな人でしたか」
その問いは、父のことよりも難しかった。
彼は、美和の笑い方を思い出した。 亮介の冗談を最後まで聞いてから、少し遅れて笑う人。 誰かが話しているとき、ちゃんと目を見る人。 それから、電話に出るときだけ声が少し明るくなる人。
「人の話を、最後まで聞く人でした」
彼は言った。
千尋は、電話の向こうで息を吸った。
「そうです」
彼女は言った。
「母は、そういう人でした」
真夜中の電話がつないだもの
- 母の手帳。 消されなかった名前と番号。
- 父の影。 会ったことのない人の若い日の記憶。
- 古い友人。 途絶えた関係が、別の人の声で戻ってきた。
- 母の輪郭。 娘が知らない若い日の母を、他人が少しだけ覚えていた。
- 探す約束。 間違い電話が、小さな約束に変わった。
切る前の約束
時計は、午前一時近くになっていた。 千尋はまだ駅の近くにいるらしかった。 彼は、タクシーか、誰かに迎えを頼むよう勧めた。 千尋は、叔母が迎えに来ると言った。
「ひとりで待っていて大丈夫ですか」
「はい」
「駅員さんのいるところにいてください」
「はい」
「それから、明日でいいので、連絡先を送ってください」
「この番号に?」
「はい」
「間違い電話だったのに」
千尋は言った。
「もう、間違いではないと思います」
彼がそう言うと、千尋はしばらく黙った。
「ありがとうございます」
彼女は言った。
「母に、そう言ってもらえたみたいです」
間違い電話は、ときどき正しい人にかかる。
古い箱
電話を切ったあと、彼は眠れなかった。 クローゼットの奥から、古い段ボールを引っ張り出した。 年賀状、写真、卒業アルバム、使わなくなった手帳。 何度も引っ越しをしているのに、捨てられなかったものたち。
亮介からの年賀状は、三枚あった。 一枚目は卒業の翌年。 二枚目は、その二年後。 三枚目は、さらに五年後。 そのあと途切れていた。
三枚目の住所は、彼の記憶と違っていた。 北の町ではなく、海沿いの町だった。 しかし、そこには小さく電話番号も書かれていた。 今も使われているかどうかはわからない。
彼はそのハガキを机の上に置いた。 夜が明けるまで、何度もその文字を見た。 亮介の字は、昔と同じだった。 少し右上がりで、急いでいるのに形が崩れない。
翌朝のメッセージ
朝になって、千尋からメッセージが届いた。
昨夜はありがとうございました。
叔母と一緒に帰りました。
母のこと、少しだけ聞けてよかったです。
彼は、しばらく返事を書けなかった。 昨夜のことが、本当に起きたのかどうかわからなくなっていた。 真夜中の電話は、朝になると夢のように見える。 けれど、画面には確かに履歴が残っていた。 午前零時三分。 通話時間、五十二分。
彼は写真を撮った。 亮介の古い年賀状。 そこにある住所と電話番号。 そして、短くメッセージを添えた。
これが最後に届いた住所です。
今も正しいかはわかりません。
でも、お母さんを知っていた人間として、探すところまでは一緒にできます。
送信ボタンを押すとき、彼は少し手が震えた。 若い日に逃げた会話を、今になって引き受けているような気がした。
電話をかけなかった人
その日、彼は仕事を休んだ。 正確には、休むほどの理由はなかった。 ただ、普通の一日として始めるには、夜の電話が重すぎた。
彼は、亮介に電話をかけようか迷った。 古い年賀状にある番号。 もしつながったら、何と言えばいいのか。 「佐野です。覚えていますか」 「美和さんの娘さんから電話がありました」 「あなたは、父親ですか」
どの言葉も、いきなりすぎた。 どの言葉も、遅すぎた。
彼はその番号にかけなかった。 まずは千尋が決めるべきだと思った。 それは正しい判断でもあり、少しだけ逃げでもあった。
電話は、かける勇気だけでなく、まだかけない判断も試す。
一週間後
一週間後、千尋から電話があった。 今度は、夜ではなかった。 午後三時過ぎ。窓の外は明るく、街は普通に動いていた。
「佐野さん」
「はい」
「つながりました」
彼は、椅子に座り直した。
「お父さんに?」
「はい」
「会うんですか」
「まだ、わかりません」
千尋の声は、あの夜より少し落ち着いていた。 それでも、何かを抱えている声だった。
「でも、話せました」
「何を」
「最初は、何も」
彼女は小さく笑った。
「向こうも、何も言えなくて」
「そうですか」
「でも、母の名前を言ったら」
「はい」
「泣いていました」
彼は目を閉じた。 亮介が泣く姿を、彼は見たことがなかった。 でも、電話の向こうで泣く亮介なら、少し想像できた。
声だけの再会
千尋は、父と会う約束はまだしていないと言った。 ただ、電話番号を交換した。 そして、もう一度話すことになった。
「会うのは怖いです」
千尋は言った。
「電話で話すのも怖かったでしょう」
「はい」
「でも、話せた」
「はい」
「なら、会うかどうかは、あとで決めればいい」
「そうですね」
電話は、ときどき対面の前に置かれる橋になる。 いきなり会うには重すぎる関係でも、声なら少しだけ近づける。 顔を見る前に、声で確かめる。 それは弱さではなく、必要な順番なのかもしれない。
この物語の電話
- 午前零時三分の着信。 日常を破る時間に鳴った電話。
- 間違い番号。 一桁の違いが、古い関係につながった。
- 母の手帳。 消されなかった名前が、娘を電話へ向かわせた。
- 父への電話。 会う前に、まず声だけで再会した。
- 佐野の役目。 間違って電話に出た人が、記憶の証人になった。
その後
千尋と亮介が会ったのかどうか、彼は知らない。 数か月後に短いメッセージが一度来た。
父と、何度か電話しています。
母の話を少しずつ聞いています。
ありがとうございました。
それだけだった。 彼は返事を書いた。
よかったです。
お母さんのことを、誰かと話せているなら。
送信してから、彼は亮介に電話をかけるべきか考えた。 しかし、かけなかった。 彼の役目は、あの真夜中の電話に出たことで終わっていたのかもしれない。 それ以上は、父と娘の電話の中で決まっていくことだった。
午前零時三分
それ以来、彼は真夜中に電話が鳴ると、少しだけ息を止めるようになった。 知らない番号でも、すぐには無視できない。 あの夜の声を思い出すからだ。
もちろん、すべての真夜中の電話に出るべきではない。 危険な電話もある。 迷惑な電話もある。 出ないほうがいい電話もある。 けれど、電話というものは不思議だ。 たった一度、出てよかった夜があるだけで、 その後の着信音の意味が少し変わってしまう。
真夜中の電話は、夜の底から誰かが差し出す細い糸である。
電話の向こうに、人がいる。
Denwa.co.jp の合言葉は、「電話の向こうに、人がいる。」 その人は、知っている人とは限らない。 家族とは限らない。 友人とは限らない。 ときには、間違ってかけてきた誰かかもしれない。
しかし、その声の向こうには必ず時間がある。 亡くなった母の手帳がある。 会ったことのない父の名前がある。 若い日の友人の逃げた記憶がある。 駅前でひとり待つ娘の夜がある。
電話は、正しい番号にだけ意味を持つわけではない。 ときには、間違った番号が、正しい記憶につながる。 そして、真夜中の電話は、 眠っていた過去を起こすために鳴ることがある。
電話の向こうに、人がいる。真夜中には、その人の孤独まで聞こえることがある。
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